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  『ラーメン論・序論』 【1999/11】


ホームページを開設して半年以上が過ぎた今になって,今まで,もやもやとしていたことをまとめたくなってきた。「はじめのラーメン論」で示した最初の1〜4は,開設時に3〜4時間で,思いつくままに書き上げたものなのだ。つまり,これからが僕の立場。あとから付け足す「ラーメン論・序論」なのである。(1999/11/11)


< 目次 >

1 ラーメンを食べない人なんているのか
      (1)地域(テリトリー)の広さは自慢にはならない
     
(2)年季が入っていればいいってもんじゃない
2 人の味覚はあやふやなものである
      (1)「好み」と「慣れ」
     
(2)「味の表現」という関門
3 店主の腕もあやふやなものである
      (1)仕込みの段階の不確実性
     
(2)調理の段階の不確実性
4 ラーメン店の評価の限界

・・・「はじめのラーメン論」( 独善的 『ラーメン論』 INDEX

  1. ラーメン食べ歩きを始めたのは
  2. ラーメンを食べ歩く意味
  3. 「うまいラーメン」とは結局なんなのか
  4. では「うまいラーメン店」とはどういう店なのか
  5. ラーメン連食の正当性を論証する
  6. ラーメン屋さんでのマナーについて考える
  7. 「まずいラーメン」は「まずい」と言ってもいいのか
  8. 人気ラーメン店の行列についての一考察
  9. 人に紹介されたラーメン店のことなど
  10. 「まずいラーメン論争」を総括する
  11. ラーメンは『女』である。
  12. 「ラーメンを愛するということ」
  13. ラーメン店での「相席」の問題について
  14. 『夫婦とは一杯のラーメンのようなもので』
  15. たかがラーメン,されどラーメン,でもラーメン(改定版)
  16. それでも僕は都(みやこ)をめざす〜《掲示板の功罪》
  17. ラーメンは『絵画鑑賞』のようなものなのだ
  18. 『ドシロウト』が語るラーメンへの熱き想い

1 ラーメンを食べない人なんているのか

およそ日本人である限り,一度はラーメンを食べていることだろう。そして,ほとんどの人が自分なりの「うまいラーメン店」をもっており,そして「もっとうまいラーメン」を求めている。これは食べたラーメンの数,地域,年数とは関係ない。たとえば,ふとラーメンの話になったとする。未食の店なら大いに興味を示し,既食の店なら自分の感想との共通点を探すだろう。たとえその評価が自分と違っても,自分の方が正しいと実は思っていたりする。簡単に自分の評価を変えたりはしない。でもそれは当然のこと。これは,その人なりの個人的な嗜好の問題なのだ。他人に理解してもらう必要はない。自分のこだわりは自分の中で完結していれば充分なのである。

こだわっても,けっして「贅沢なグルメ」とは言われないもの,それがラーメンなのだ。

(1)地域(テリトリー)の広さは自慢にはならない

初めて外でラーメンを食べたのはいくつのころだろう。親が酔狂な人間(たとえば僕のような)でない限り,普通の家庭ではラーメンを食べることを目的にした遠出なんてしない。つまり,ある年齢までは,その人の「生活範囲」の中で出会えたラーメン店が「その人の好きなラーメン」ということになる。たとえば,近所のラーメン店・親に連れて行ってもらったデパートのそばのラーメン店・旅先でたまたま入ったラーメン店・学校の部活の帰りに仲間と寄ったラーメン店等々である。そしてそれらの店が,長らく「お気に入りのラーメン店NO.1」を占めることになる。その店がそのままの形で,もしくはそこのオヤジがその店にいる限り,「思い出の店」は「うまいラーメン店」なのだ。そして,何かの機会に地域(テリトリー)が広がれば,それはそれで幸せを感じる「可能性」が増えるだけなのである。

僕が遠くまで食べ歩きをするから,ラーメンの味をわかっているなんてことはない。『あの店で食べなければラーメン店は語れない』なんて事は絶対にないのだ。茨城にも千葉にも,そして東京の片隅にも「その人なりのうまいラーメン店」はある。生活範囲以上に地域(テリトリー)を広げ,それ以上の味を求めるかどうかは,まったく個人の自由なのだ。他人に強制できることではない。そして,その範囲の狭さを卑下することもない。「ラーメン好き」の段階は無限なのだ。そして,そのすべての段階で選ばれた「うまいラーメン」は,みな「正しい」のである。

(2)年季が入っていればいいってもんじゃない

僕自身,意識的にラーメン食べ歩きを始めて20年以上になるが,ここ4〜5年のラーメン事情の変化はすさまじいものがある。TV,雑誌,ラーメン本,そしてこのインターネット・・・情報はとめどなく流れ出し,またその内容もひと昔前では考えられないほど充実したものになっている。つまり,新しい店にいわゆる「老舗店」を超える研究心に裏打ちされた「味」を出す店が実に多いのである。従って,「食べ歩きの年季」なんてものは,現在では何の意味ももたない。今現在,食べ歩いていることがすべてなのだ。もちろん,老舗店の中にも今でも通用する「味」を出す店はあるのだが,大多数の「過去の店」は「思い出の店」として僕の中に生き続けるのみ。僕自身の「嗜好」の変化と言う部分もたぶんに影響しているとは思うのだが・・・。

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2 人の味覚はあやふやなものである

(1)「好み」と「慣れ」

たとえば「ご飯」と「味噌汁」を考えて欲しい。毎日当たり前のように繰り返し食べてきた日本人の「主食」と「スープ」にも実は「好み」がある。米の種類,水加減,とぎ方。味噌の銘柄,調理方法,具の組み合わせ・・・あえて話題にしないまでも,うまく表現できない「好み」を誰もが持っているのである。それは「もっとかためがいいな」「ちょっとしょっぱいんじゃない?」という基準のない漠然とした表現だったりする・・・。ラーメンの「麺」と「スープ」はこの「ご飯」と「味噌汁」と同じだと思うのだ。「具」(「おかず」)と切り離されたところで,微妙な「好み」の違いがある。ただそれをあまり口にしないだけ。でも聞かれればみんな言いたいことがある。うまく言えないものの「好み」は各々にある。

およそ食べ物である以上,各個人ごとに「好みの味」があるのは当然だ。ラーメンに限って言えば,大きく分ければ「こってり」と「あっさり」,麺の「固め」「やわらかめ」,味の「濃いめ」「薄め」等々である。この根本的な好みが異なる人の間において「うまいラーメン」という漠然としたテーマでラーメンを論じても無意味である。ことラーメンにおいては「好み」の違いは決定的なものなのだ。ましてや昨今のラーメンの多様化は「好み」の分類を複雑にしている。「しょうゆ」「みそ」「しお」にせいぜい「とんこつ」があっただけの頃と違い,「背脂系」「家系」「和歌山系」「旭川系」と「こってり」も様々。それどころか,つい最近では「これはラーメンと言えるのか」と迷ってしまうくらいの「淡色系」のラーメンももてはやされている。ラーメンの味の両端は,果てしなく広がってしまっているのだ。同じラーメン好きと言っても好みが違えば,まったく共通点はなくなってしまうのである。

「当たり外れを数こなして,一定の味のイメージを客が作り,それが癖になるというパターンの店」があると,昔からの友人が僕にメールをくれたことがある。「好み」という共通点があるとしても,自分の好みの店を他人に紹介した場合,「慣れ」と言うフィルターがかかった店では,なかなかその店に対する「思い」を共有することはできない。慣れた店では「今日はちょっと〜だったなぁ」と思えても,初めての人にとってはその日の味が評価のすべてなのである(.の問題にもかかわってくることだが)。生活範囲が異なれば,なかなか慣れるまでは通えないのが現実なのだ。人の味覚はかようにあやふやなもの。その先にあるラーメンの味の評価はさらにあやふやなのである。

(2)「味の表現」という関門

絶対的な味覚を共有できたとしても,味を他人に伝える手段は,それが会話であれ文字であれ「言葉の表現」でせざるをえない。これが曲者なのだ。例えば「こってり」とはどういう味なのか。どこまでを「あっさり」と表現していいのか。味に「コクがある」ってどういうことなのか。両者が同じ味を感じたとしても,それを言葉にした段階で「ずれ」が生じてしまうのである。「背が高い人が好き」「やさしい人が好き」「かわいいコが好き」・・・でも,各々の人が違う異性を選択するように,ラーメンも「言葉の表現」ではカバーしきれない細かく分類された「好み」を百人百様にもっているものなのである。結局は「うまい」という漠然とした表現で,漠然とした「好み」を共有するしかないのだ。「うまいラーメン」を共有できても「一番うまいラーメン」は共有できないのは,少なくとも言葉の表現の上ではしかたのないことなのである。僕は食べれば食べるほど「一番うまいラーメン」は,確定できなくなってしまった。初対面の人に「おすすめのラーメン」を紹介するなんて不可能なのである。

この点につき「どんぶり会議」にラーメン仲間のK氏より「メッセージ」をいただいた。

《 かの文芸評論家、小林秀雄先生曰く、 「美しい花」がある。「花の美しさ」というものはない。 (花の美しさを言葉でいろいろいっても意味がなく、今美しい 花を目にしている自分の感覚がすべてだという意味らしい)》
そのK氏曰く 
《 「おいしいラーメン」がある。「ラーメンのおいしさ」という ものはない。 結局自分がいまおいしいと体で感じていること以外には確かな ものはないのかと。》

同感である。「うまいラーメン」はたしかに数多くある。多数決で決まると言ってもよい。ある一定の時間をおいてその店の前に立てばわかることも多い。しかし,自分が感じた「そのラーメンのうまさ」を表現し,他人に言葉で充分に伝えることは,実は非常に困難なことなのだ。「とにかく食べてみて」 そう言うしかない。また,その結果として「そのうまさ」を共有できなかったとしてもしかたがない。その理由付けでさえも,言葉で「表現」しなければならないからである。「うまい」という感覚は,その人がその瞬間にだけ感じる刹那的なものなのである。それ以上でもそれ以下でもない。

もうひとつ付け加えよう。いわゆる「ご当地ラーメン」と言うのがある。本来,事業的に東京に支店を出した店がそこそこ売れてくると,それがかの地のスタンダードのように感じたりする。しかし,もともとその店の主人が何らかの経緯で作り出した味であるわけだから,それを基準にして「これは和歌山ではない」「本来の熊本ラーメンとは・・・」などといっても無意味である。地元での評価も様々だからだ。「東京ラーメン」と言われてもどこが現在のスタンダードなのかわからぬように,結局個々の店の単一の評価をするしかない。正しい「ご当地ラーメン」なんて地元にさえないのだ。

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3 店主の腕もあやふやなものである

(1)仕込みの段階の不確実性

「ラーメン王」(石神秀幸氏・双葉社)の中で,家系の総本山「吉村家」の吉村氏が「ラーメンを作るのには微妙な波がある」と言っていた。「本当は一定の味を保たなければいけないんだけど,現実的にはそりゃ難しい」とも。ある店が評判の有名店になり,ラーメンが売れれば売れるほど大量の仕込みが必要になる。それが毎日。安定した食材を確保できたとしても,しょせん自然にできたものを人為的に加工したものが材料になる。まったく同じ食材で仕込みができるなんて,厳密には不可能なことなのである。

確実性を求めるならば,化学調味料に頼れば「味の安定」は確保できる。しかし,いわゆる「化調」を否定するのが「ラーメン通」の(少なくともネット上での)風潮である。僕は化調否定論者ではない。要は程度問題だと思っている。「味の安定=経営の安定」を求めるのなら,大量にラーメンを提供する店であればあるほど「化調」は避けて通れないと思うのだ。カウンターのみの,店主が一人で切り盛りしている店,しかも営業時間が短く,しょっちゅう休む店なんてのはこういう心配がないのかもしれないが,うまければとてつもない行列ができる店になってしまうのだろう。いやその前に,体力的もしくは経営的に苦しくなってしまうのかも・・・。「評判の行列店」に行った場合,かような「仕込みの段階の不確実性」も考慮に入れるやさしさも必要だ。「?」と思っても何度か通って結論を出すべきなのかもしれない。でも遠くの店であればそれもなかなか難しい・・・。「味の安定」と「経営の安定」,こだわりのある研究心の旺盛な店主であればあるほど,悩みは深いと思う。

(2)調理の段階の不確実性

仕込みが満足のいくものだったとしても,調理の問題が待っている。麺の茹で時間,たれの分量,スープの熱さ・濃度・・・ラーメン店に行けばわかると思うが,ラーメンはたいていの場合調理する人のおおまかな「勘」によって作られている。スポイトやビーカー,温度計で一杯一杯を確認しながら作っている店なんて見たことない。つまりその日のラーメンは,店主のやる気・体調・疲労の度合いによって大いに左右されると言うことなのだ。ましてや助手(弟子)・アルバイトが作る場合など,それ以上に不確実なものとなる。僕は家族で食べる場合が多いので,同じメニューでも妻のラーメンを味見することがあるのだが,これがけっこう微妙に違ったりするのである。その日その客のその一杯に全神経を集中して,店主の思うベストなラーメンを提供してくれればそれが一番なのだが,しょせん人間が作るもの。できることとできないことがある。評判がたって,行列ができる頃にはなかなかそこまで期待できなくなるのだ。

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4  ◆ ラーメン店の評価の限界

話をまとめよう。ラーメン店の評価は,このふたつのあやふやなもの(上記2.3.)の上になりたっているのである。だから人に紹介するのはむずかしいのだ。その人がうまい(もしくはまずい)と感じる同じラーメンは,厳密には同じ日の同じ店にさえ存在しないのである。その振り幅の狭い店が,安定した人気店ということになるのであるが,それとて「飽きる」という問題にはかなわないのだ。結局は客の期待を先読みする店が,いつまでも「うまいラーメン店」ということになる。

行列の長さは店の規模・従業員の人数・調理時間の長さ・食べる早さ(麺の量・スープの熱さによる)に深く関係する。あとリピーターの数・新規の客の数か。行列のできる店が必ずしも万人の「好み」に合うわけではないが,ラーメンに対する一定以上のこだわりがある(あった?)店と言うことはできるだろう。結局はそれらのラーメンを食べ歩き,その時点での「自分にとっての一番好みの味」を出すラーメンを取捨選択していく終わりなき作業をしていくのが,僕のHPの目的なのである。

僕の好みがあなたの好みと100パーセント合致するなんてことはありえない。自分の好みのラーメンは情報を集め自分で確立していくしかないのである。僕はそのささやかなお手伝いをしてみたいだけなのである。(1999.11.11)

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はじめに-はじめのラーメン論

  1. ラーメン食べ歩きを始めたのは
  2. ラーメンを食べ歩く意味
  3. 「うまいラーメン」とは結局なんなのか
  4. では「うまいラーメン店」とはどういう店なのか
  5. ラーメン連食の正当性を論証する
  6. ラーメン屋さんでのマナーについて考える
  7. 「まずいラーメン」は「まずい」と言ってもいいのか
  8. 人気ラーメン店の行列についての一考察
  9. 人に紹介されたラーメン店のことなど
  10. 「まずいラーメン論争」を総括する
  11. ラーメンは『女』である。
  12. 「ラーメンを愛するということ」
  13. ラーメン店での「相席」の問題について
  14. 『夫婦とは一杯のラーメンのようなもので』
  15. たかがラーメン,されどラーメン,でもラーメン(改定版)
  16. それでも僕は都(みやこ)をめざす《掲示板の功罪》
  17. ラーメンは『絵画鑑賞』のようなものなのだ
  18. 『ドシロウト』が語るラーメンへの熱き想い

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