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たかがラーメン,されどラーメン,でもラーメン 【2000/05】

たかがラーメンなのである。

「そんなに食べてどうするの」と彼女は言う。「どこにでもあるし,どこで食べても同じでしょ?」とも。そりゃそうだ。たいていの場合「普通の店」の「普通のラーメン」は「普通の味」なのである。こだわるほどのものはない。だからそんな店では,「ラーメン」だけではもの足りなくなる。サイドメニューを頼むか,「具」のバリエーションで食欲を満たすかである。当然,ラーメンの基本である『麺とスープ』の印象はますます薄くなる。「具」で「味」を感じると言ったところか。だからそんな人にとっては,たとえば僕のように「ラーメンを食べるためにかの地へ向かう」なんてことは信じられぬだろう。一般的には食べるものの発想が途切れた時に選ぶもの,それが「ラーメン」なのである。「ラーメン『でも』食べて行こうか・・・」 だからその圧倒的多数の意見を背景に彼女は言う。「たかがラーメンにそんなに時間を使って・・・・」

されどラーメンなのである。

「されど」ラーメンはそんなに軽く見たものではないのだ。これは「理屈」ではない。「経験」なのだ。「たかがラーメン」と思う人はその経験が不足しているだけなのである。たしかに一昨年(1998年)あたりまではラーメン店の情報はマンネリ化していた。でもTV東京の「TVチャンピオン・ラーメン王選手権」が広く認知され,そのチャンピオンとなった武内氏と石神氏の本「何回も行きたくなるラーメン店100」と「ラーメン王」が昨年春に相次いで出版された。それに続き秋から冬にかけて出た「ご当地ラーメン」「ラーメン7人衆」「うまい!ラ-メン」のいわゆるネット系3部作(→「参考文献」参照)。これらの本のすごいところは,ひとりの人が実際に食べ歩いた上で選んだ店である点だ。実際にそれほど食べる人たち(1日5〜6杯とか,年間900杯とか・・・実際に存在するのだ)なのであり,何よりもラーメンが好きな人達が書いた「ラーメン本」なのである。今までよくあったように,編集者が「業務命令」で好きでもないラーメンの情報を実食もせずに集めたような本とはレベルが違うと思うべきだ。ひとりの人が実食して選定し評価する,そうでなければラーメン本なんて何の役にも立たないだろう。そんなわけで,今,首都圏のラーメンの情報は高いレベルで飽和状態にある。それらの本に載っている店(それは僕の『宿題のラーメン店』でもある)を何軒か食べてみるだけで「経験値」は上がるだろう。もちろん好みは誰にでもあるから相性が悪い店も当然あると思う。あっさり好きにこってりをすすめても喜ぶはずもない。100パーセント誰もが「うまい」なんて言うラーメンはこの世には存在しないのだ。でも好みに合う店はその中に必ずある。それだけの店はそろっている。

思うに,以前は「ラーメン屋『でも』やるか」もしくは「行きがかりでラーメン屋になってしまった」的な店が多かった(ように思う)。当然そんな店の主人は研究心など希薄で,オーソドックスな「スープ」に業務用の画一的な「麺」でラーメンをつくる。そして「具」のバリエーションや「セットメニュー」でより多くの利益を出そうとする。一方,今話題の店は「ラーメンが好きでラーメン屋になりたくてラーメン屋になった」と言う店が多い。脱サラして始めた人もいる。全くの独学で作り出す人もいる。こんな店はまず麺とスープにこだわる。具は二の次だ。開業してもなお食べ歩きに精を出したりする。それを店に日々フィードバックする。基本の麺とスープにこだわりがあればまずかろうはずがない。そんな店に「うまいラーメン」があるのだ。その情報がここにある。あえてラーメンをその日の食事に選ばぬ人でも,いつか食べられる「うまいラーメン」が嫌いと言う人はいないだろう。そこでその店の主人の,ラーメンに対する「熱い思いと深い研究心」を垣間見ることができればより幸せな気分になれるのだ。こだわりの店で食べるラーメンはけっこう「深い」ものなのである。「されどラーメン・・・」そう言うだけのことはあるのだ。

でもラーメンなのである。

「でも」である。ある程度「うまいラーメン」の経験値が上がると,ラーメン好きの間で「評価」が始まる。「出汁はどうか」「製麺所がどこか」はては「スープは無化調」「麺は無かん水」「だしは天然素材」「湯切りの程度」等々・・・それはそれで「情報」としては十分に価値はあるとは思う。大切な判断材料であるのはたしかだ。が,自分と相容れぬ「評価」を聞いてその批判を「真顔」でするのはどうか。「でもラーメン」なのである。「笑顔」で自由に言いたい事を言いたい。そして語り合いたい。店側のレベルで言えば,素材にこだわり基本となる「ラーメン」が高価になっても意味はない。安いから,気軽に食べられるからラーメンに価値があるのだ。「うまくなるならいくら払ってもいい」と思う人は,どうか別な食べ物の世界でその欲求を満たしてください。基本的にラーメンの「評価」はおおらかでありたい。自分の好きな店が低く評価されていても,自分の嫌いな店が高く評価されていても,そもそもその評価の尺度が様々な条件で異なる以上(>『ラーメン論・序論』)しょうがないことなのだ。にこっと笑って聞き流して自分の好きな店を追い続けるのがいい。

「たかがラーメン」と言う人には,「されどラーメン」と言いたい。「でも」所詮ラーメンなのだ。人の好みはひとそれぞれ。気軽に自由に食べられるのが一番だ。ラーメンは楽しくいただきたい。本来ラーメンはそういうものなのだから・・・。

参照> あとから付け足す「ラーメン論・序論」

こんなことも以前に書いてます。

  1. ラーメン食べ歩きを始めたのは
  2. ラーメンを食べ歩く意味
  3. 「うまいラーメン」とは結局なんなのか
  4. では「うまいラーメン店」とはどういう店なのか
  5. ラーメン連食の正当性を論証する
  6. ラーメン屋さんでのマナーについて考える
  7. 「まずいラーメン」は「まずい」と言ってもいいのか
  8. 人気ラーメン店の行列についての一考察
  9. 人に紹介されたラーメン店のことなど
  10. 「まずいラーメン論争」を総括する
  11. ラーメンは『女』である。
  12. 「ラーメンを愛するということ」
  13. ラーメン店での「相席」の問題について
  14. 『夫婦とは一杯のラーメンのようなもので』

(2000/05/18)

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