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『まずいラーメン論争』を総括する【1999/06】

一度食べてみたいと思いつつ,平日の昼までの営業なのでずっと食べられないでいるラーメン店がある。いつか食べてみたいと,ずっと憧れていた。ところが,昔から有名な,東京のそのラーメン店に並んでいる人を見て,ある人が

《あの行列が、今の日本人の味覚レベルを証明してますね! おいしいって思う人は、幸せです。化学調味料さえあれば、美味しいと感じるんだから!!!》

という意見を,ネット上のラーメンの世界では著名な掲示板「とらさん会議室」に書き込んだ。客が見えるのに,化学調味料を多量に使うことが問題らしい。

これが気になってしまった。化調云々は争いがあるとしても,そこのラーメンが食べたくて並んでいる人のことをそこまで言っていいものか。

そこで同じ「とらさん会議室」に,「まずいラーメンはまずいと言っていいのか」という投稿をしてみた(1999.6.21)。僕自身,ずっともやもやとしていたことである。これを個々の店のレベルで論じると,その店に対する思いの違う人との間で論争になり,「まずけりゃ行かなきゃいいだろう」と言う感じで終わってしまいそうだ。だから,一般論とし広くて意見を聞いてみたかったのである。

反応はたくさんあった。「たかがラーメン」についてインターネットに関わってる人達は,みんなラーメンに対する思いが強いと言うことだろう。やはり,「されどラーメン」なのである。

実際のやりとりは「とらさん会議室・バックナンバーNO.49」を読んでいただくのがもっとも適切なのだが,ツリーが複雑になり,時間的な前後関係がわかりづらくなっている。そこで,問題提起した張本人として,論争を総括してみた。ただし,個々の投稿者に了解を取っているわけでもないので,《引用》にとどめている。あくまで,「とらさん会議室」の補助的なものとして読んでいただきたい。

論争は,まずいと言うことの「表現方法」とその「表現の場」の問題に集約されると思う。分けてまとめてみる。

Iまずいと言う「表現方法」について

(1)まずいという概念

考えてみれば「まずい」というのはかなり漠然とした言葉である。

この点に言及した代表的な4つの意見として

  1. 《「まずい」「おいしい」は抽象的な表現で本来は好ましくないでしょう。マイナス評価を与えるなら、たとえばスープが単調だ。麺がのびかけている。チャーシューが小さい。のように、具体的に表現することが正しい表現と言えます。》
  2. 《「旨い/不味い」は「味覚の絶対値」より、むしろ「その結果として沸き起こった“感情”」と考えるべきではないか。》
  3. 《世の中には風習が違えば変な腐ったようなものでも普通においしく食べます。そういうことをも解らず「まずい」はないと思います。おいしい味がその人にわからないのです。まずいという言葉は個人的なことばでしょう。》
  4. 《マズイものはマズイに違いないですが。どのように世の中には千差万別な不味さがあるわけでしてマズさの内容をちゃんと表現せずに、単純に「マズイ」とだけ発言するというのは、茫漠としすぎるのではないでしょうか。端から見ると、貶しているらしいことと書き手の感情だけはわかりますが、批評になってないんで、読まされる側としては意味無いです。》

では,どう言えばいいのか

《このラーメンは私にはあわない。》との意見。「口に合わない」「好みでない」「私にはチョット・・・」等々,言い方はいろいろ考えられる。

しかし《「好みでない」なんて、単なる言い換えですからね。》と言う意見もあった。

そして《「まずい」みたいなハルマゲドンな言葉はなるべく腹の中にとっておこう》と言う人。

確かに「そう言っちゃぁおしまいだよ」的な言葉はいろいろある。それを,うまく言い換えてお互いに分かり合えるのが日本人のいいところかもしれない。

もっとも

という考えも。これでいけば,麺とスープの評価だけが問題となり,「まずい」の対象が限定されてわかりやすくなる。僕も麺とスープが肝心だと思う。しかし,一般的には具の善し悪しのみならず,店の雰囲気までけっこう気にされてるようである。

(2)いわゆる「割り箸折り」について

《割り箸を折って帰る、という行為をもって「まずい」とする、という日本人的な美学をふまえたナイスアイデア》がある。だから,この方法を支持するとの意見があった。

これに対しては

実は僕も見たことない。

との反論が出る。

客商売をやってると,たまに折られた箸を見る。いつも折る人もいる。ただ割箸というのは捨てるときにけっこうかさばる(ゴミ袋から飛び出してしまう)ので,折ってあると処理しやすい。そういう意味で折る人もいるようだ。抗議の方法としては「実効性」はまだまだないと思われる。結局は,一般化しない限り自己満足的な行為なのかも知れない。だが,この習慣を知ってしまったら,店主は気になってしまうだろう。折ってある箸を見ただけでは,その意味は判別し難いからである。

(3)「おいしい」という表現

この意見には異論はなかった。僕もそう思うがやはり恥ずかしくて言ったことはない。そう言いたくなるときはけっこうあるのだが・・・。

IIまずいという「表現の場」について

「まずいものはまずいといっていい」と言う人でも,それを表現する場についてはいろいろな段階があるようである。

(1)個人のHP上の表現について

一番優しさのある意見である。これに対しては

との意見も。また方法論として

では僕のHPではどうかというと・・・

(2) BBS(掲示板)上ではどうか

掲示板というのは,便利な反面危険な部分も持っている。

個人がHPを作ってもそれが認知されるまでには多大な時間を要するし,認知される頃には主宰者もある程度特定される立場となる。発言には慎重にならざるを得ない。HP上の表現には「責任」が生じるのである。

しかし掲示板は違う。誰でもネットに接続してありさえすれば,いきなり自分の意見をのせることが出来る。メールアドレスを表示しなければ,特定はさらに困難となる。ここに無責任な投稿が生じるのである。大きな掲示板になれば主宰者のチェックなんて無理である。投稿は24時間いつでも可能なのだ。一つの店を人気店にするのも悪評をたてるのも,やろうと思えば方法はいくらでもあるのだ(長期的には実力通りになるとしても・・・)。

この掲示板の長所と短所が,論争においても重要なポイントになってくる。

以下のやりとり(順不同)にみなさんの「悩み」が具体化している。

これらの論争は《わたしは41歳、法律関係の仕事に従事してます》と言う方からの,以下の意見が載った事に始まる。

ここで論議は白熱することになる。

すべての意見がもっともだと思う。大切なのはこういう問題意識を常に持って,ネット上で発言することであると思う。

まずいと言うべき相手方について視点を変えたものもある。

最後に一つの貴重な情報として

現代において,ネット上の発言はちょっとした発行部数の雑誌に匹敵するくらいの影響力があると思う。ことラーメンに関してはその傾向が強いと思う。ひと昔前の「美食評論家」の言うことより,ネットの主宰者や,テレビ番組(テレビ東京「ラーメン王選手権」等)の優勝者の選ぶ店の方が,一般に支持されていると思う。いや,むしろ何の肩書きも持たない「投稿者」の生の意見の方が,参考にされているのかもしれない。だからこそ,投稿者も含めた一人一人が自分の発言に責任をもってくれれば,そう極端な悪影響は出ないと思える。

掲示板の規模が大きくなればなるほど,そこに掲載される情報の影響力は強くなってくる。管理者の判断に任せるのにも限度がある。結局は「個々の投稿者のモラルに任せるしかない」と言うのが私の結論である。

たとえそのラーメンが,いわゆる「ラーメン通」の人を満足させるモノではなかったとしても,生活をかけてラーメン店を営んでいることにはかわりはないのだ。自分がもしその店主だったと考えるなら,自分の知らない場で「まずい」というような最悪な評価が下されているのは辛いことだと思う。インターネットが一般化したとはいえ,たとえ自分の店の悪評を知ったとしても,反論できる人はまだまだ少ないと思うからである。反論すればよけい悪評が具体化してしまうと言う懸念もあるだろう。結局,悪評だけがいつまでもネット上に存在することになる。クチコミの悪評は事実に反すればいつか消滅するが,ネット上の悪評はいつまでも繰り返し存在してしまうのである。「検索」すれば過去の悪評でも今の情報のように表示されてしまうのだ。その店が悪評に気づき改善したとしても,その後のフォローがなければ,少なくともネット上では意味がないのである。

やはりマイナスの評価を与えるときは,どこかに「救い」も与えるべきである。そして「まずい」と感じたとしても,有名ではない店であれば,話題にしないことが「優しさ」だと思う。もちろん,有名店であっても「優しさ=配慮」が必要なのは言うまでもない。(1999.7.6)

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