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はじめにラーメン論を【1999/04】


  1. ラーメン食べ歩きを始めたのは
  2. ラーメンを食べ歩く意味
  3. 「うまいラーメン」とは結局なんなのか
  4. では「うまいラーメン店」とはどういう店なのか
  5. ラーメン連食の正当性を論証する
  6. ラーメン屋さんでのマナーについて考える
  7. 「まずいラーメン」は「まずい」と言ってもいいのか
  8. 人気ラーメン店の行列についての一考察
  9. 人に紹介されたラーメン店のことなど
  10. 「まずいラーメン論争」を総括する
  11. ラーメンは『女』である。
  12. 「ラーメンを愛するということ」
  13. ラーメン店での「相席」の問題について
  14. 『夫婦とは一杯のラーメンのようなもので』
  15. たかがラーメン,されどラーメン,でもラーメン
  16. それでも僕は都(みやこ)をめざす《掲示板の功罪》
  17. ラーメンは『絵画鑑賞』のようなものなのだ

 

あとから付け足す「ラーメン論・序論」

あとから付け足す「ラーメン論・序論」・・・まずはこちらからどうぞ

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ラーメン食べ歩きを始めたのは

1978年(昭和53年)1月30日,生協の書籍部で当時創刊間もなかった情報誌「angle」1978年2月号(主婦と生活社)を買った。その号でたまたま特集されていたのが徹底調査!味自慢のラーメン屋75店という記事。なぜかこれを全部回ろうと思ったのが私のラーメン食べ歩きの始まりである。以来20年を過ぎ,ここ10年くらいのラーメンブーム(?)もあって,私のラーメンに対する思いは強くなる一方である。現在茨城在住だが,毎週のように東京に食べ歩きに行っている。ラーメンに関してはあまり情報もない茨城のラーメン事情(水戸・ひたちなか周辺が主だが)を東京の有名ラーメン店と比較の上で紹介しようというのが私のHPの目的である。

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ラーメンを食べ歩く意味

およそ料理という物は素材選びから始まる。洋食でも和食でも高い食材使えば美味いのが当たり前,ラーメンはあの程度の値段で競争があるからすごいと思うのだ。庶民の味と言われるほかの物,例えばカレーでも丼物でもこだわっていけばどんどん高級品になっていく。よくありますよね,2500円の老舗の天丼とか,ルーとライスだけで2000円ぐらいするカレー専門店とか・・・美味くて当たり前,まずくても普通だったら頭にくるか,自分の味覚が低級なのかと思ってしまう。もっと高級(といわれる)料理だったらなおさらだ。ラーメンにはそれがないからいい。だいたい500円から700円くらいで食べられる。うまけりゃ得した気分になり,まずくてもこんなもんかと思うだけ。「こんな味で600円もとりやがって・・」とまでは思わないでしょう(?でも800円なら思うかもしれない)。そういう意味では,中華料理によくある「乗せてある具で食べさせるラーメン」(フカヒレラーメンとかね)は嫌い。やはり基本は「麺」と「スープ」。それにつきる。 だから初めて行く店では一番シンプルなラーメンを食べる。基本となる味がわかりやすいからだ。ネギの味にひっぱられてしまうネギラーメンも苦手だし,辛口ラーメンもそれがその店の評価の基本にはなり得ないと思う。

と,こんな風にいろいろ言えるからラーメンはいい。食べ物についていろいろ言うのは,安いものでなければ嫌みなグルメになってしまう。和・洋・中すべての料理は,こだわれば贅沢な食生活になる。寿司の食べ歩きなんて僕にはできそうもない(経済上の問題ですが)。誰もが食べるものであり,食べ歩きしても他人からは「良くやるねえ」とは言われても「贅沢だ」とは言われそうもないもの,それがラーメンであり,食べ歩く意味もそこにあるのだ。

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「うまいラーメン」とは結局なんなのか

結論から言えば,誰もが旨いというラーメンなんて無いのではないかと思う。結局は「味の好み」の問題だからだ。だから,他人に旨い店を紹介するのは苦手である。その人のラーメンに対する食事としての位置づけ・好みがわからない限り,紹介しても満足してもらえる確率は低いからである。飲んで酔っぱらってほかに食べる物がないから食べるのがラーメンだと思っている人に,わざわざ遠くまで食べ歩きする人の気持ちは分かるまい。ただの物好きに見えるだろう。また,「あっさり醤油味」がラーメンだと思っている人(年輩の人はたいていそうである)に,「味噌味」・「塩味」ならまだしも「こってりとんこつ」・「背脂びっしり」の旨さを説明しても無意味である。胃が受け付けまい。だからといって,例えば,初めて「家系」のラーメン店(とんこつ醤油味)に連れてきてもらった人が,最初に食べる一杯を「味うすめ・油すくなめ」で調整してるようでは,なかなかその旨さは伝わらないのではないかと思う。コッテリが苦手な人は味を調整しても中途半端に胃のむかつきが残るだけだろう。結局,好みの幅が広い一部のラーメン好きの人達でない限り,聞かれたら好みを聞いて注釈をつけて紹介するしかあるまい。「絶対旨いから是非食べてみて」なんてとても言えない。

あなたが「あの店のあのラーメンが食べたいなあ」と思って,わざわざ時間をかけて食べに行くのであれば,それがあなたにとっての「うまいラーメン」なのである。他人に理解してもらう必要はない。化学調味料を使っていようがいまいが,うまけりゃいいのである。健康に気を遣うなら,ラーメンは食べ歩かない方がいい。健康的な食べ物は他にいくらでもあるのだから・・・

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では「うまいラーメン店」とはどういう店なのか

プロがつくったラーメンを「うまい」というのはまだしも「まずい」と言いきるのには勇気がいる。初めて入ったその日の味が,その店のベストの味であるとは限らないからである。ただ,その日その日の1人1人の客との真剣勝負と考えれば(なんか漫画的な表現だが),その日まずいと感じさせるのはラーメン店の負けであろう。少なくとも,近くにいて「あそこのラーメンでも食べていこう」と言う人はまた来ても,遠くから「あそこのラーメン食べに行こう」と言う人を増やすことはできまい(それでもいいと店側が思うなら,それも立派な経営方針であるが・・・)。「客が客を呼ぶ」というように,その日のその客が満足すれば,何十人もの客を連れてくることがありうると思うべきである。スープも麺も,タレもその他の具も,その仕込み・研究に素人ではわからない手間がかかっている事は十分に予想できる。だからラーメンづくりに対する思い入れと,研究熱心さが有れば旨いラーメンをつくることはいつかできるだろう。問題はそれをいかにして維持するかである。それが「旨い店」であり続ける条件であろう。どんなに旨いスープとタレと麺を準備しても,その日そのラーメンをつくる人(主人であれ,弟子であれ)にやる気がなければ「?」と思うラーメンになってしまうのである。ましてや,将来ラーメン店なんてやる気もなさそうなバイトの子がつくったラーメンなんて,有名店でも食べたくない。結局「旨いラーメン店」とは,『店主のラーメンに対する思い入れと研究熱心さがいつも感じることができる店であると私は思う。

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ラーメン連食の正当性を論証する

4月になって石神秀幸氏の「ラーメン王」の本を入手した。地元の書店の店頭で見かけたことがなかったので,注文したのである。若い店員に本の名前を告げるときに「はあ?」と聞かれて少々はずかしかった。

その中で,「ラーメンを一日に何杯も食べるのは後の店に対して失礼である。なぜならば味覚は変化するものであり正確な味の評価なんてできなくなるからである」といった趣旨のことが書いてあった。その通りだと思う。1日1杯のうまいラーメンを食べていけたら幸せだと思う。でも僕は食べ歩く。連食する。日曜の午後に4〜5杯のラーメンを食べるなんて最近では普通になってしまった。なぜか。答えは至極簡単,「食べたいラーメンがたくさんあるから」である。そして大多数の人がそうであるように,いろいろなラーメンを食べ歩ける時間が限られているからである。普通の社会人・学生なら生活の範囲は限られている。一方,うまいと言われる店は限りなく広範囲にある。時間ができてある一定の地域に出かける。目当てのラーメンがその地域にいくつかあれば,必然的に連食してみたくなるのである。次にいつまたそこに来れるかわからないからである。

別項にも書いたが,20年以上前に雑誌「angle」(1978年2月号)に載っていた75店を食べ歩いたことがある。学生だったがそれでも1年5ヶ月かかった。連食の日があってもである。時間を作り交通費をかけて行くというのは簡単ではないのだ。それでも当時はラーメンの情報は限られていたので,75店を食べきったときにはそれなりに満足感があった。他の店の情報は入ってこなかったからである。ところが今は違う。「ラーメン本」は巷にあふれ,毎週のようにどこかの雑誌に特集が組まれ,おまけにこのインターネットである。食べたみたいラーメンがあとからあとからできるのだ。情報を得たラーメンが本当にうまいのか,うまいとしてもどれくらいうまいのか,どんな風にうまいのか,考え出したらきりがない。食べて自分なりの結論を出したいのである。

では,食べ歩いた場合順番が後になれば「うまい」ラーメンは「まずく」なるのだろうか。答えは「否」である。「うまいラーメン」は,もう腹一杯でも「おおっ」と感じるのである。「まずい」ラーメンは最初に空腹で食べても「まずい」のである(もちろん僕にとってである)。経験的に「うまいなあ。でも腹一杯で目が食べたくても食べられない」ということはよくあるのだ。もちろん僕はそれでも麺だけは食べきる。店に対する自分なりの礼儀である。さすがにスープは残ってしまう。名残惜しい。じっと見つめてたりする。でも,必ず後でまた来ることになる。そしてその店は「お気に入り」の店となる。店にとっても,次の機会に回されるよりその日一口でも食べてもらった方がうれしいのではないか。すべからく「次の機会」はなかなか来ないものだからである。

連食する人はラーメンにバリエーションをつけていることだと思う。「とんこつ醤油>醤油>とんこつ>みそ>支那そば」といった具合にである。一週間のサイクルでもそうだろう。石神氏が前述の本で「たとえば巣鴨ラーメンを8食続けて食べたら同じ評価はできないだろう」と書いているが,そんな状況は普通考えられない(考えたくもない)。スープの味に変化があれば結構新鮮に味わえるのである。僕にとってラーメンの麺はライス,スープはみそ汁,具はおかずなのである。3食くらい続いてもなんてことはない。毎日ご飯を食べて飽きる人は少ないでしょう?日本人ならご飯,イタリア人ならパスタが主食である(???)ように,ラーメンフリークにとっては麺が主食なのである。この際そう言いきってしまおう(毎日自宅でご飯食べてるけど・・・)。(1999.4.27)

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ラーメン屋さんでのマナーについて考える

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「まずいラーメン」は「まずい」と言ってもいいのか

「まずいラーメン」は「まずい」と言ってもいいのか

人気ラーメン店の行列についての一考察

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人に紹介されたラーメン店のことなど

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「まずいラーメン論争」を総括する

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ラーメンは『女』である。

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「ラーメンを愛するということ」

「ラーメンを愛するということ」

ラーメン店での「相席」の問題について

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「夫婦とは一杯のラーメンのようなもので」

『夫婦とは一杯のラーメンのようなもので』

たかがラーメン,されどラーメン,でもラーメン

たかがラーメン,されどラーメン,でもラーメンNEW

それでも僕は都(みやこ)をめざす〜《掲示板の功罪》

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