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● ぜんやとジョンレノン 【2000/10】
『ジョンレノン射殺』 <1980/12/08>
大学4年の冬,1980年12月のその日,渋谷駅から乗った新玉川線の車両。目の前に座ったサラリーマンの夕刊フジ(日刊ゲンダイ?)に,この赤字の大見出しを見つけた。とても深い喪失感があったのを覚えている。「なんてもったいないことを・・・」そして「あぁもうジョン・レノンの新しい歌は聴けないんだな・・・」 と。
もっとも,当時の(それまでの)僕はジョンの熱狂的ファンと言うわけでもなかった。むしろ(たぶん当時多くの人がそうであるように)メロディーメーカーであるポールマッカートニーの曲を好んで聴いていた。「バンド・オン・ザ・ラン」「ジェット」「心のラブソング」・・・。しかし,この時からジョンの方が僕の中で一番になった。「IMAGINE」「Mother」「Love」「MindGames」・・・難解だった曲も好んで聴くようになった。この事件以後,ジョンは伝説化し,ポールは一般化した。ジェームスディーンも松田優作もそうであるように,人生半ばで消えた才能は「伝説」になりやすい。そしていつまでも語り継がれる。
「John Lennon Museum@さいたま新都心」がジョンの死後20年経った今,日本にできたと言うニュースを聞いた時はびっくりした。何故今ジョンレノンか?何故日本なのか?しかも何故埼玉なのか・・・。でも面白そうだ。ちょうど「埼玉のラーメン」に興味もある。そもそも僕の妻の名は「ヨーコ」。ジョンレノンと共通点はあるのだ(笑)。
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■ ジョン・レノン・ミュージアム@さいたまスーパーアリーナ : 火休 11〜18(金〜20)
★ 大人1500円・中高生1000円・小学生500円 048-601-0009 > http://www.taisei.co.jp/museum -
East is east and west is west
The twain shall meet
East is west and west is east
Let it be complete-John Lennon
from "You Are Here"東は東 西は西
このふたつはめぐり会える
東は西 西は東
そうして結ばれる-オノヨーコ訳
2000.10.9JR京浜東北線・大宮と与野の間にできた「さいたま新都心駅」。その西側のJR埼京線と挟まれる三角地帯にある「さいたまスーパーアリーナ」。「世界最大規模の可動システムにより約6000席から37000席のさまざまなイベントに対応できる」と言う巨大アリーナだが,その4階と5階にこの「John Lennon Museum」がある(入口は吹き抜けの3階部分)。ニュースでは行列だったがこの日(2000/10/29)は空いていた。4階のフロアの入口にある程度人数を溜めてまず「ミニシアター」へ。50人ほどの階段式シアター。ジョンの一生を観念的に映像と単語の字幕だけ(音声なし)で綴る。とは言え上映時間は5分ほど。導入部分で盛り上がるところなだけにちょっともの足りないかな。あとは徒歩で年代ごとに区分された各ブースを回ることになる。
Childhood Memories (少年の記憶) 1940-1955<誕生〜15歳>
Mama don't go, daddy come home (母さん行かないで,父さん戻ってきて)
「Mother」の中でジョンが絶叫しているように,両親の不和が原因で叔母に育てられた少年時代。その頃の絵(「心の壁,愛の橋」のジャケットになったもの等々)や写真が飾ってある。「ストロベリーフィールズ」は実在の場所で,ジョンが1人でよく遊んだ近所の孤児院の庭だそうな。そう聞けば「STRAWBERRY FIELDS FOREVER」のもの悲しい曲調もよくわかる。そして実母の事故死。「僕は母を二度も失った。一度は母から引き離され,おばに引き取られた時。そして,今度は母の全てを失った。それは僕の心に大きな傷となって残った。」Rock'n Roll 1955-1962<15歳〜22歳>
ポール,ジョージ・ハリスンとのロックン・ロールバンドの時代。リーゼントに革ジャン(実物が展示してあった)のこの時代を好む人も多いが,僕はちょっと。むしろこの次期にメンバーだったスチュアート・サトクリフ(22歳で病死)やピートベストの人生の方に興味がある。ちょっとしたいきさつだけでその後の人生が大きく変わる。この二人ほどもったいないことした若者はいないのではないか。日本だったらサザンのメンバーなんかそう思う。
The Beatles 1962-1967<22歳〜27歳>
ガラっと変わって「アイドル」の時代。僕のビートルズ入門もこの時代のベスト盤「OLDIES」。もっともそれを聴いたのは高校時代(1974〜)だから実際はかなり時代差がある。全部の曲を遡って聴いていった世代だ。だから当初はビートルズのイメージがなかなか確定しなかった。何故なら,ライブ向けのシンプルでポップな曲が多い「PLEASE PLEASE ME<1963>」「A HARD DAY'S NIGHT」<1964>から,初期から見るとかなり変わって実験的なアコースティックサウンドが目立つ「RUBBER SOUL」<1965>,「REVOLVER」<1966>を経て,僕自身衝撃を受けたコンセプトアルバム「SGT.PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND」<1967>に至るまではわずか4年しかないのである。意外にも短期間で変貌したことになる。この急激な変化を同時進行で楽しむことができたらうれしかったろう。この時期の衣装(初期の襟無しジャケットからサージェント・ペパーのミリタリースーツまで)や,ギター(曲順のメモが貼ってある黒いリッケンバッカー),はては作詞原稿(「HELP」や「IN MY LIFE」のメモのような自筆原稿)まで展示してあるから,ファンは感動するだろう。
ところで,ビートルズの日本公演は1966年,当時8才の僕に当然記憶はない。TVなんてまだまだ貴重品だった時代だ。事実,我が家の4つ脚のTVにはカバーがかけてあったし・・・。むしろその日本公演の前座で演奏したドリフターズに,その後夢中になった世代である。この頃ジョンは,いわゆる「キリスト発言」を原因とする排斥運動と,熱狂的なファンによる混乱を嫌いコンサート活動を停止する。ここで初めて知ったのだが,この時期「僕の戦争」と言う映画に丸眼鏡をかけて単独で出ているのだ。そしてオノヨーコとの出会い。7歳も年上の日本人女性。日本人としては誇らしいことだと思うのだが,当時もその後もあまりいい印象はない。その特異な風貌と,ジョンに対する影響力から「ビートルズを解散に追い込んだ東洋人女」と言われるようになる。今考えれば,ビートルズにとってヨーコの存在はマイナス要素だったと思う。が,ジョンレノンにとっては大いなるプラス要因だったと言えるのではないか。この時期の最後に出された「MAGICAL MYSTERY TOUR」<1967>。このアルバム自体は賛否両論だが,その中の「All You Need Is Love(愛こそはすべて)」なんかはその後のジョンの方向性を示していると言える。
Love And Peace 1968-1970<27歳〜30歳>
ジョンとヨーコが親密になる(ビートルズのレコーディングの場にまでいるようになる)と当然ビートルズの中には不協和音が出てくる。目指す音楽性の違い・・・。昔も今も音楽グループの宿命だ。2枚組の「THE BEATLES」<1968>(いわゆる「ホワイトアルバム」)から「ABBY ROAD」<1969>〜「LET IT BE」<1970>に至り,ビートルズとして頂点を極めれば,後は解散しかなかった。僕はこの時期のビートルズが一番好きだ。「Birthday」「Get Back」そして「LET IT BE」・・・みな好んで学生時代(1977〜)にバンドで演奏した曲である。僕は70年安保の世代ではないのでジョン&ヨーコの反戦運動(WAR IS OVER / IF YOU WANT IT)もピンとは来ないのだが,ジョンが政治的立場を表明した初めての曲と言われる「Revolution」の自筆原稿なんてのもあるのでチェックしたい。
Imagine 1970-1971<30歳〜31歳>
「ジョンの魂」<1970>で始まるこの時代。「母」「愛」「母の死」「労働者階級の英雄」・・・日本語の題名がこれほどストレートにはまる外人のアルバムはないのではないか。そして「イマジン」<1971>。コーナーには例の「白いピアノ」でイマジンをレコーディングするジョンのフィルムが延々と流れる。作詞原稿もある。ジョンレノンファンなら一番感動する場所だろう。僕もこの時期のジョンが一番好きだ。曲も,そのアクが抜けて悟りきったようなその雰囲気も・・・。
New York City 1971-1975<31歳〜35歳>
ニューヨークに移住してその政治運動も過激になってくる。アルバムもそう。その結果の「国外退去命令」。そして運動の行き詰まり。ヨーコとの別居。酒と薬物におぼれる日々。「Mind Games」等,名曲もあるのだが混沌とした時代だ。この時期はあまり好きではない。でも一つだけ異色の「ROCK'N'ROLL」<1975>の中の「Stnd By Me」は好きな曲だ。
House-Husband 1975-1980<35歳〜40歳>
ヨーコと再会したジョンは,あの「ダコタハウス」で新しい生活を始める。そして「人生最良の時」。ヨーコとの初めての子ども,ショーンの誕生だ。音楽活動を停止しハウス・ハズバンド(専業主夫)の暮らしを始める。今までののコーナーではジョンの私生活の雰囲気はあまりわからなかったが,ここは違う。色々な生活の備品が並び興味深い。ショーン(これがまた東洋的で可愛いのだ)と楽しく遊ぶ写真が並ぶ。軽井沢に長期滞在したのもこの頃だ。ジョンの墨絵や日本語ノートなんて貴重なものまで見られる。
5年間の沈黙の後「DOUBLE FANTASY」を1980年に発表する。ジョンとヨーコがキスしてるモノクロのジャケットのアルバムだ。「Starting Over」・・・互いの成長を認め合い再出発を宣言したこの曲。優しさの満ち溢れた「Woman」等,生まれ変わったような新たなジョンの「これから」が見えたアルバムだった。僕自身,自分がジョンのファンであることを再認識した直後のあの事件だった・・・。
そして次のコーナー。1980年12月8日へ。ちょっとびっくりした。また前のコーナーへ戻ったくらいだ。いったい何があるのかは是非一度入場して確かめて欲しい。ジョンレノン・ファンにとってのその日の意味がよくわかる。
最後はジョンレノンからのメッセージのコーナー。一層明るい部屋の中央に天井までの白い間仕切。その前には透明な厚いアクリル板。そこに英文と日本語でたくさんのメッセージが並ぶ。その中の一つ。
Now that I showed you
what I've been through
Don't take nobody's word
what you can do僕が これまで どうやってきたかは
おしえられるけど
きみが これから どうするかは
自分で考えなきゃ出口前にアンケートのコーナーがあった。ジョンレノンのパネルが並び,各々にポストがある。気に入った写真の前のポストにアンケートを入れるわけだ。僕の感想は
「こんなに文字を読んだミュージアムは今までなかった。映像より言葉の方がより多くのものを伝えられると思う」
★
ジョンレノンと言えば「イマジン」だろう。一番好きな曲だ。いろいろな訳詞があるが,忌野清志郎が「カバーズ」の中で歌っているのが好きだ。実際にメロディーに乗せて歌っている分,本来の「歌」として実にぴったりくるものがある。
天国はない ただ空があるだけ
国境もない ただ地球があるだけ
みんながそう思えば 簡単なことさ社会主義も 資本主義も
偉い人も 貧しい人も
みんなが同じならば 簡単なことさ夢かもしれない でもその夢を見てるのは
一人だけじゃない 世界中にいるのさ
誰かを憎んでも 派閥を作っても
頭の上には ただ空があるだけ
みんながそう思うさ 簡単なこと言う夢かもしれない でも その夢を見てるのは
きみ一人じゃない 仲間がいるのさ
夢かもしれない でもその夢を見てるのは
きみ一人じゃない 夢かもしれないでも一人じゃない 夢かもしれない かもしれない
訳詞:忌野清志郎
[ COVERS/RC SUCCESSION 1990 ]もうすでにジョンが生きていた年齢は超えているのに,何も残せないでいる自分のこと考えると少し情けなくもなってくる・・・。だから「ラーメン」・・・なのか?
おっと,肝心の本題を忘れていた。では「ぜんや」とジョンレノンはどう結びつくのか。
そもそも「ぜんや@新座」は第2回TVチャンピオン(と言えば現ラ博広報の武内氏の回だ)決勝進出と言う経歴を持つ店主がこだわりをもって,しかも「塩ラーメン」のみで勝負している店。今やとてつもない行列の店として有名だが,こう言う経歴を持つ店の場合,得てして理屈が先走った難解なラーメンになることが多い。だが,そのラーメンは透き通ったそのスープの色に似合わずインパクトのあるはっきりした味付け。きりっと熱いスープにぷるぷるの麺。それを狭いカウンターの中で実ににこやかに作っている。何かを達観したような風格さえ感じる。
一方ジョンは,アイドルから神格化し平和主義者になるも,その平和運動に挫折。荒廃した生活を送った後,一家庭人(専業主夫)となり,5年の沈黙の後久々に「ダブルファンタジー」で「スターティングオーバー」と再び歌い始めた。その頃のジョンの生き様がこの「ぜんやラーメン」と共通するものがあるのだ。ラーメンが好きで,さんざんラーメンを食べ歩いたであろう店主がラーメン店を開く。そして選んだ味は「塩」。イメージよりもずっと力強い「塩」。射殺される直前のジョンレノンが,すっかりアクが抜けて透明なイメージになりながらも,その曲にはまだまだ「メッセージ」を強く残していたように,「ぜんやラーメン」にもラーメン好きに対するメッセージがあるのだ。そんなところが共通していると思うのだ(なんて強引な結び付け・・・)。まぁ要するに「ぜんや@新座」に行った後で「ジョンレノン・ミュージアム@さいたま新都心」に行けば,ある一定の年代以上の人は満足するのではないかと言うこと。
参照 > 「John Lennon Museum 公式ホームページ」