GO HOME  BACK

新しくなった明治大学駿河台校舎のことなど

めずらしく土曜に一家で東京に出てきた。例の如く「ラーメン食べ歩き」の途中にふと神田駿河台へ。後部座席の下の娘(4才)が寝てしまった。明治大学の裏側にある錦華公園(博多龍龍軒のところ)に妻と娘達を残し,ひとりで神保町へ行ってみる。「おもだかや」と「伊峡」が目当てだった。

神田駿河台の明大下の神保町界隈には,僕の青春が詰まっている。夏目漱石の母校という錦華小学校の向こうの,何でもない路地を入っていくと,学生相手の飲食店がひしめき合っているのだ。天丼,天ぷら,とんかつの「いもや」(それぞれ分かれて店がある),ちょっとおしゃれ(当時の僕にとってだが)な「キッチン・ジロー」,居酒屋の「庄や」(昼時にランチがある),人生劇場と言う名前のパチンコ店に向かう角にある安いカレー店(名前忘れた,というか覚えてない。でも今もある)・・・昭和50年代中頃,みんなお世話になった店ばかりである。錦華公園からは歩いてすぐの所で,学生時代は毎日のように通ったところだ。涙が出るくらい懐かしい。

30分ほどで錦華公園に戻ると,娘二人はブランコで遊んでいた。それを妻が写真に撮っている。あまりにも平凡な背景だからと,錦華坂を上がり,明大10号館(かつて法学部があったが部室センターになっていた)の前を抜けて,新しくなった明大駿河台校舎(「リバティタワー」などと呼ぶそうだ)を訪ねる。実は母校なのだ。あの風格のあった旧校舎は取り壊され,なんと23階建てのビルになっていた。でもそのてっぺんにちょこんとのった薄黄緑のドームが,OBをほっとさせる(笑わせる?)。あのドームの中を見てみたい・・・。ふとそう思いついたのだ。

昔のままの「山の上ホテル」の前を通り,以前図書館のあった側から入ってみる。授業は出なくても図書館・自習室には毎日通う生活をしていた真面目(?)な学生だったのだ。しかし,どちらの建物も今は跡形もない。すっきりした空間になっていた。本館地下の奥にあった雑然とした「師弟食堂」も,今となっては懐かしい。安いのだけが取り柄の「学食」だった。でも好きだった。

旧図書館側から本館(リバティタワー)には夏休みのせいか入れなかったので,ぐるっと回って正面に向かう。さすが「開かれた大学」である。短パンにゴム草履の親子4人連れが,なんのチェックもなくどんどん中に入っていける。何か言われたら「昭和56年法学部卒のOBだ」と言ってやろうと思っていたのに,ガードマンでさえちらっと見ただけで脇を通り過ぎていく。拍子抜けした。結局,どんどん上に上がって,大学院の階もぬけ23階の岸本記念ホールまで来てしまった。しかしここは感動的な場所である。地上23階に丸い木造のエントランス,見上げると例の薄黄緑の丸いドームが吹き抜けで内側から見渡せる。正面には,ニコライ堂から,はるか秋葉原・浅草方面まで見渡せる巨大なガラス窓。V字型の柱がアクセント。両サイドに大きなドアのホールの入口があり(これはさすがに閉まっていた),その間の四隅に展示物のコーナーがある。

その一角に明治の象徴・島岡御大と北島監督の写真とトロフィーが飾ってあった。創始者の名前を知らずとも,この二人の名前を知らぬ明大生は当時いなかったと思う。野球部とラグビー部の監督をギネス級の永さで務めてきた二人である。涙が出そうになった。この二人が明治大学に与えた影響は計り知れない。明大気質の固まりのような人物だ。それを大学も認めて,こんないい場所に並べてディスプレィされている。それがうれしかった。エレベーターで一気に1階ロビーまで降りる。それにしても昔の駿河台校舎(写真はRinsho's photo pageの「さよなら記念館」参照)を知るものにとっては,こんな空間がどこにあったのだろうと思うくらい広々としている。今の学生は幸せだ。でも昔の校舎の方が明治らしかったとも思う。今でも僕の頭の中には,当時の校舎のひとつひとつの佇まいが再現できる。

でも時代は変わっていく。新しいものの方に「勢い」があるのはラーメンも同じである。(1999.8.28

“島岡御大”といえば、長野県飯田市にほど近い「高森町」に「御大の館」という温泉保養施設があるそうだ(りんしょさんのスナップがある)。「御大」に郷愁をおぼえる方は,信州旅行の途中に寄ってみては?

明治大学公式ホームページ・・・ http://www.meiji.ac.jp/index.html

前のページへ戻る


ホームはじめに茨城の麺東京の麺食べ歩き日記